■書籍紹介ページ■ (訳者による)
アル・グラスビー著 藤森黎子訳 橋爪大三郎解説 |
オーストラリア連邦 |
●「寛容のレシピ」とはどんな本か
アル・グラスビー著
藤森黎子訳
解説=橋爪大三郎
NTT出版 定価2300円+税
2002年3月23日発行この本は大きく分けて三つの部分から構成されている。
1972年から1974年までオーストラリアの労働党政権の移民大臣だったグラスビーは、白豪主義と人種差別を撤廃するために、法改正をはじめとして数々の改革に取り組んだ。また1975年からはオーストラリアの初代コミュニティー関係コミッショナーとして活躍したが、 "The Tyranny of Prejudice" はコミッショナー当時の経験を著したものである。多民族主義をはじめて掲げて、オーストラリアがさまざまな出自の人びとで構成されていることを国民の一人ひとりが自覚するよう繰り返し訴え、それぞれの民族の伝統が尊重される多文化国家をめざして教育に力をそそいだ過程がつぶさに描かれている。
- オーストラリアの前移民大臣アル・グラスビーが1984年に書いた"The Tyranny of Prejudice" の邦訳
- 日本とオーストラリアの関係についてグラスビー氏が本書のために寄稿した新章と訳者によるグラスビー氏のインタビュー
- 東工大の橋爪大三郎教授による解説
またインタビューでは、 "The Tyranny of Prejudice" が書かれた以降のオーストラリアの、多文化・多民族主義国家としての歩みと最近の問題についてグラスビーが語っている。
解説「オーストラリアの多文化主義からなにを学ぶか」で、社会学の橋爪大三郎教授は、日本や世界の国々の民族構成を詳しく分析し、今、「日本を多文化社会に転換させる時期がきた」と、グラスビーたちが進めた試みから学ぶべき点を指摘している。
●目次
はしがき 序章 ほんとうのオーストラリア人は手を挙げて!
Will the real Australian please stand up?第1章 目のあざと鼻血
Black eyes and bloody noses第2章 オーストラリアの人種差別サイクル
Australia's racist cycle第3章 差別の最大の標的
Who do we hate the most?第4章 イタリア人をみればマフィアと思え
Riding the midnight mafia第5章 なぜ卑屈になるのか
How a man can hate himself without realizing it?第6章 寛容のレシピ
Crucibles of tolerance?第7章 正真正銘?のオーストラリア人
Who is the fair dimkum?第8章 オーストラリアはどこへ行く
Advance Australia where?第9章 日本とオーストラリア グラスビー氏インタビュー オーストラリアの多文化主義はアメリカや世界のお手本だ
(聞き手 藤森黎子)アル・グラスビーの人と業績 E.G.ホイットラム 解説 橋爪大三郎
オーストラリアの多文化主義から何を学ぶか
●著者紹介 アル・グラスビー
1926年7月12日 オーストラリアクイーンズランド州ブリスベンで生まれる。
2001年8月、グラスビー氏宅にて
(訳者撮影)父親はスペイン系、母親はアイルランド系。
6歳くらいから世界経済恐慌のため職を探す父親とともに15年間、ヨーロッパアフリカなどを回り、1948年、ヨーロッパからの移民船でオーストラリアに帰る。
農地灌漑事業を通して農業普及、また統計学、歴史、語学を学び、ジャーナリストとしての経験も積む。
1965年、ニューサウスウエールズ州議会議員に選出される。
1969年、リベリナ地区から連邦議会議員に選出される。
1972年、再選され、ホイットラム労働党政権の移民大臣に任命される。
1974年、移民大臣として改革推進中の総選挙で敗れる。
1975年〜1982年 初代コミュニティ―問題コミッショナーを務める。
●グラスビー氏の主な著書 『ザ モーニング アフター』 (The Morning After, 1979)
自伝とともに、1974年の選挙で経験したオーストラリアの人種差別 の嵐と、初代コミュニティー問題コミッショナー就任のいきさつについて。
『オーストラリアのスペイン人』 (Spanish In Australia, 1983)
『オーストラリアの6大戦場』 (Six Australian Battlefields, 1988)
膨大な資料に基づいて、これまで明らかにされてこなかったオーストラリアの内戦、植民統治をはじめたヨーロッパと原住民族との戦いの歴史を探る。
『オーストラリア共和制』 (Australian Republic, 1993)
1901年にオーストラリアは連邦政府を成立させたが、依然としてイギリスからの政治的・経済的独立を果たしていない現状を語り、共和制を求める各時代の動きや各界の声を伝え、真の独立を訴える。
『時が忘れた人』 (The Man The Time Forgot, 1999)
これまでスポットを浴びることがなかった、世界で最初の労働党政権を樹立したチリ出身の第三代オーストラリア首相クリスチャン・ワトソンの伝記。
●原著紹介 - The Tyranny of Prejudice について "The Tyranny of Prejudice" by Al Grassby
アル・グラスビー著『寛容のレシピ』―オーストラリア風多文化主義を召し上がれ―
本書は、人種偏見にまみれた白豪主義を克服し、多民族融合国家への脱皮に成功したオ ーストラリアの経験を、豊富なエピソードを交えて、世界の読者に紹介する。 オーストラリアは、広大な国土、自由な国民性、成熟した多国籍文化を謳歌している。 1500万人の国民は、世界140ケ国からやってきた人びとで、その言語は90、宗教 は80にものぼる。しかし、ここに至るまでには、外からうかがい知ることのできない、 人種差別・偏見との闘いの歴史があった。
オーストラリア国民は、つい最近まで、この国は、イギリスのジェームズ・クック船長 によって発見され、イギリスの植民地として出発したと教えられてきた。1959年まで は国勢調査で、オーストラリア人ではなくイギリス人と書かなければならなかった。移民 たちはアングロ・サクソンに同化するよう強制された。パスポートの国籍欄に「オースト ラリア人」と書けるようになったのは、ようやく1973年のことである。
実際にはオーストラリアは、4万年前からアボリジニーの人びとが、独自の世界観をも ち、平和な共同体をつくり、自然と調和して暮らしていた。ところが、1830年ごろに は100万人にのぼったアボリジニーは、計画的な人種根絶戦争の結果、5万人にまで減 ってしまうのである。
オーストラリアと命名したのも、イギリス人ではなく、スペインの探検家ペドロ・フェ ルナンデス・デ・キケロ船長である。以来この国には、インドネシア人、ポルトガル人、 スペイン人、オランダ人、フランス人などが訪れていた。1787年にイギリスが植民地 支配を始めたときも、イギリス軍のなかには実はドイツ人、アイルランド人、ポーランド 人、イタリア人など各国の人びとが混じっていた。
オーストラリアの人種差別は、最初アボリジニーを標的とし、のちにアイルランド人、 中国人、南ヨーロッパ人、アラブ人、ユダヤ人も差別の犠牲となった。大勢のアボリジニ ーが殺され、アイルランド人を中心とした暴動でも多数が殺された。ゴールドラッシュの あとの恐慌では中国人がスケープゴートになった。ところがこうした歴史は、つい最近ま で、公式に認められることはなかった。
1975年、オーストラリアはようやく人種差別撤廃法を制定することになった。それ でも差別は根強く残っていて、現在もアボリジニーやアジア系の人びとが標的になってい る。
人種差別の根底にあるものは、偏見である。偏見は、個人の問題であると同時に、組織 的に助長されもする。オーストラリアでは、多くの右翼団体が偏見を煽動しているほか、 出版・報道・教育にも偏りがある。著者は、1972年から1982年まで、初代コミュ ニティー問題コミッショナーとして、さまざまな改革に取り組み、数多くの現場で差別と 闘ってきた。学校でこの問題に取り組む教師たちと、スクラムを組むこともできた。 偏見の本質は、無知や間違った情報や非合理な判断にもとづいて、十分に考えることも なく、意見をのべてしまうことにあると著者は言う。これに対しては、第一に教育、第二 に情報の普及、第三に個々の人種差別のケースと取り組むことが大事だ。こうして一人ひ とりの国民が自分の背景を知ると同時に、異なった背景をもつ人びとを認めて受け入れる 土台ができる。1973年には、文化の多様性を容認する政策がスタートし、今日も、過 去の同化政策を払拭する努力が続いている。
オーストラリアはかつて、人びとを同化・均質化する同化政策を進めてきたが、これは もはや時代にふさわしくない。緊張を高め、移民してきた人びとの負担を大きくするだけ である。これからは、学校・家庭・社会が包容の場となって、それぞれの民族が独自の文 化を守りながら、融合と統合を達成していくことが、オーストラリア国家の目指す方向で ある。世界のあらゆる地域から才能ある人びとが集まっていることに自信をもち、自立し た国家として、人びとが平和に友好的に生活し働く機会を提供すること。これが真の多国 籍国家の姿であると、著者は結ぶ。
20年前にオーストラリアが直面した課題は、いま、国際化の波に洗われるわが国がま さに直面する課題でもある。白豪主義を克服し、国際社会に開かれた多民族国家へと劇的 な転換をとげたオーストラリアの経験は、日本の読者にとってきわめて有益であるに違い ない。
●序章「ほんとうのオーストラリア人は手を挙げて!」より ---オーストラリアの人種差別がひどかったのは、オーストラリア人がみな同質であるという有害な神話が広められたから。そして、その神話を支える欺瞞的な同化政策が進められたからである。本書では、人種偏見のよくあるパターンを、いくつか取り上げよう。そして、この神話−−同質性の神話とよぶことにする−−が、どうやってこんなにもしつこく生き延びてきたのかを、考えてみよう。
●第9章より ---日本人がオーストラリアの開発に著しく貢献したのは真珠産業だけではなかった。 19世紀に田中という名前の農民がビクトリア州にやってきた。そして米の生産を始めた。彼はショートグレイン種の稲の育成を実験し、オーストラリア大陸で米の栽培が可能だと指摘した。彼が先駆者となった稲作はニューサウスウエールズ州のヤンコ実験農場に引き継がれて、オーストラリアでの稲作が開始されることとなった。米は今ではオーストラリアのもっとも重要な一次産業となっている。 現在、オーストラリア産米はその全生産量の90%が世界各地に輸出されているし、日本にまで輸出されているほどだ。
●インタビューより ---オーストラリアの多文化政策は、世界の手本となれると思いますか。
もちろんですとも。
オーストラリアの多文化政策が素晴らしい成功を収めたことは、国連も認めています。そこで、文化的な多元主義、複合文化主義(マルチカルチュラリズム)、言語と文化の尊重についての重要な国際会議を、オーストラリアで開きました。
オーストラリアの多文化政策はおおいに成功したと言えますし、先輩であるアメリカにも、よいお手本になっていると思いますよ。
同化政策、人種のるつぼという考え方はもう役に立たなくなったということに、アメリカは気がついた。そして、新しい手本をさがしている。おそらくそれは、オーストラリアです。私たちが30年も前にそうしたように、アメリカではいま「race」というかわりに「ethnic」というようになりはじめました。
●解説より ---多文化主義の挑戦
多文化主義は、さまざまな文化的・民族的背景の人びとが、そのことによって不利益を被らずに、共存する枠組みである。共通文化(そういうものがあるとして)に画一的に同化して、もとの特徴を失ってしまうかわりに、互いに異なったまま、社会の対等な一員となり、多様性の相乗効果によって社会に豊かさをもたらそうというものだ。
多文化主義は、頭のなかの知識ではなくて、われわれの行動を導く原理である。
多文化主義を学び、身につけるとは、多文化主義についての本を読むことではない。本を読むこと自体は悪くないが、そこにとどまってはだめ。さまざまな文化的・民族的背景の人びとと、対等にうまくつきあうやり方を身につけ、同じ社会のメンバーとして行動できるようになることが、大切だ。
日本もいま、そんな多文化社会の入り口に立っている。
日本はオーストラリアと違って、単一民族国家だから、多文化主義なんか関係ないや、と思う人びともまだ多いかもしれない。
まず、「日本は、単一民族国家である」というのは、嘘である。
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